YUMI KORI ART WORKS

見える空間、見えない空間 ー軍艦島で感じたことー

<天と地の間に幽閉された場所>

白い水しぶきをあげて進むフェリーの甲板に座り、私は、少しずつ遠ざかっていく島のシルエットをじっと見ていた。さっき島で見た廃墟の光景がその影に重なる。崩壊してぼろぼろになったコンクリート、赤茶けて風化した鉄、半壊した部屋に置き去りにされた生活用具、壊れた障子、そして、ガラスが割れてなくなった窓から見えた美しすぎる海の色…。そこには、炭鉱労働者が暮らした住まい、幾重にも重なる暮らしの思い出があって、かつて子供たちが走り回った幼稚園や小学校、人々に束の間の楽しみを与えた映画館や広場の跡あった。

エンジンの爆音が甲板に振動を与え、風を切る音と競い合いながら、船は長崎への帰路を急いでいた。風化して色を失ったコンクリートの建物群は、距離が離れるにつれ、個々の見分けがつかなくなり、互いに溶け合い、そこに置き去りにされた記憶の断片といっしょに影に飲み込まれて行った。そして、その名の通り、島はしだいに軍艦を思わせる鈍い墨色の船の形になって行った。

その中で、最後までその影とは一つにならない不思議な建物があるのに気がついた。それは、島の一番高いところに残る端島神社だった。

その時、気がついた。島の上には神社、下には炭鉱があり、人々はそれらの2つの間の空間に生きていたことに。神社は天と人々の間に君臨し、本殿の扉は固く閉じられて庶民は決してその先を見ることを許されない。また、地底に広がる炭鉱は、闇に包まれて底が見えず、いくら掘ってもどこにも到達できない巨大な無である。端島は、天と地、光と闇の間に幽閉された場所だったのだ。

<透明な水平>

上下に閉ざされた島の空間について考え初めた私は、島の北側に建つ日給住宅16〜20号棟で体験した水平方向に抜ける空間の感覚を思い出していた。そこは、長屋を積層させて一定間隔で置き、それら5棟の建物を立体路地のような大廊下で結んだシンプルな空間構成だった。大廊下から分岐した外廊下には、長屋の住まいが数珠繋ぎになっており、各戸には、路地(廊下)に面したオモテと、バルコニーに面したウラがあり、それぞれの側にラーメン構造の構造柱の間を目一杯開いた開口部がある。オモテに面した玄関には土足エリアの三和土があり、路地と柔らかくつながる。一方、奥には一段上がった座敷があり、掃き出し障子と縁側、手すりという組み合わせで、中庭に開いている。中庭側には各戸を結ぶ廊下はない。この「路地→土間→部屋→縁側→中庭」という空間配列が、5棟分連なっているのがこの日給住宅の特徴だ。この住棟配置と住戸プランは、エアコンもない当時を考えれば、理にかなっていたに違いない。中庭は狭いが、風は各棟の住戸を貫通して取り抜け、上昇気流に乗って夏場の通風に役だったであろう。

廃墟と化した19号棟の長屋の一軒に足を踏み入れ、座敷に腰掛け、当時の住人が見ていた風景を想像してみた。中庭を挟んだ向かい側18号棟の住戸が上下左右に碁盤の目のように並んで見える。昔は、真冬でない限り、みんな住戸の建具を開け放っていたに違いない。そう考えると、各々の住戸フレーム、それぞれが小さな舞台のように見えてきた。軍艦島の労働者は24時間2交代、あるいは3交代制だったというから、そこには、昼夜関係なく繰り広げられる人々の様々な暮らしのアクティビティーが見えていただろう。また、隣棟の18号棟と床のレベルは同じなので、その先にある17号棟の住戸も見え、さらにその向こうに16号棟の住戸までも視線が通る。前後左右に重なり合うフレームに人々の生活が重なり、子供達の遊ぶ声、様々な生活音、家族団欒の笑い声、路地で繰り広げられる井戸端会議などが混ざり合ってオペラのように聞こえたことだろう。

日本家屋の建具によって切り取られる重なり合うフレームを見た時、私は、小津安二郎監督の東京物語(昭和28年1953年 公開の日本映画)の老夫婦が住む尾道の家のことを思い出した。老夫婦が旅の荷造りをしていると、庭先の障子窓の外からにゅっと顔を出して話しかける隣人。それに驚くこともなく、普通に対応する老夫婦。ここでは、互いのプライバシーがないことに対してなんの違和感もなく、窓は、室内から外を覗くためだけでなく、外から覗かれ、そこに双方向のコミュニケーションが生まれるために存在している。

また、映画「男はつらいよ」の第1話(山田洋次監督、昭和44年1969年公開)でも、寅さんの妹、さくらに裏の印刷工場につとめる博が思いを打ち明ける場面では、「僕の部屋から、さくらさんの部屋の窓が見えるんだ。朝、目を覚まして見てるとね、あなたがカーテンを開けてあくびをしたり、布団を片づけたり、日曜日なんか楽しそうに歌をうたったり、冬の夜、本を読みながら泣いていたり。あの工場に来てから三年間、毎朝あなたに会えるのが楽しみで、考えてみれば、それだけが楽しみでこの三年間を・・・。」という、今ならストーカーとして警察に通報されるような言動をし、それを聞いたさくらも、その博の強い気持ちに心が動かされ、最終的に結婚へと進むというくだりを思い出した。

つい50年前前の日本の窓は、うちから外への視線の一方通行の穴ではなく、双方向に見る見られることを前提として存在していたのだ。これは、明らかにヒッチコック監督の「裏窓」(1954年のアメリカ映画)に出てくる窓とは違う日本的な開口部の在り方だと言って良いだろう。西洋的な窓では、窓は内側から外を見るというカメラのファインダーのような一方向の装置である。(主人公も足の悪いカメラマンと設定されている。)そこでは、外から窓の中を覗くという行為は明らかな禁止事項である。事実、「裏窓」では、見てはいけないものを見てしまった主人公は、いつのまにか犯罪に巻き込まれてしまう。

そもそもプライバシーという言葉が日本に現れたのは、いつからか。見られることをそんなに恐れるようになったのはいつ頃からか。つい最近まで人々は、窓から自分の生活を覗かれることに何の違和感も感じず、全く平気だったということを考えずしてこの軍艦島のプランは成り立たない。もちろん、日本人のプライバシー感は、現在でも西洋に比べるとかなり違う。例えば、電車の中で化粧をしている女性、いびきをかいて居眠りしている男性、泥酔して駅で潰れている会社員…。このようなプライベートな状態を公衆の目に晒すということは西洋ではあまり見かけない。そこには、裏を返せば他人にプライベートな側面を見られることを受容するおおらかさが、いまだに日本国民の中に残っているということだろうか。


話が逸れたが、軍艦島の16~20号棟(大正7年1918年築9階建RC造アパート)を見たときに、そこにある住戸間の双方向の視線の流れを享受し、隣棟と有機的につながる高層化住宅の空間構成に魅せられた。たぶん、このプランは、もともとは蒸暑地域である日本の風土から生まれたものだろうし、平屋の長屋というビルディングタイプの積層化という発達経緯からして自然発生的なものだったと思われるが、この建築のかたちが、軍艦島に「島はひとつの家族でした。」当時を振り返る元住民が語る、他とは比べられないほど濃密なコミュニティの形成になんらかの影響を与えたことは推測される。


次に、16~20号棟が高層建物でありながら地面に緩やかつながっていることに、私は強く魅せられた。5棟の日給住宅は、敷地段差のある東側の崖の傾斜地にへばりつくように建てられている。大廊下から伸びる各棟の廊下は自然発生的に生まれた集落の路地のように感じられた。浜通りから見ると9階建だが、山通りから見ると1〜2階の高さになり、また、屋上には土が乗せられ屋上庭園として使われているため、ますます建物と地形が溶け合って感じられる。

蛇足だが、以前、上海の「老場坊」に行った時にもこれに似た空間の感覚を感じた。これは1933年に建てられた屠殺場で、牛が緩やかに歩ける「牛道」が内包された建物なのだが、「牛道」は、廊下と呼ぶには違和感を感じる緩やかな移動空間であった。そこでも、屋内にいながら屋外の空間のスケールを感じ、建築空間が地形の一部のように感じられた。

<天からも地からも切り離された難破船>
軍艦島の影が波の彼方に溶けて見えなくなった時、てっぺんにある端島神社もまた、空と見分けがつかなくなった。満州事変が勃発し、日本が軍国主義の道をまっしぐらに進んでいた昭和11年(1936年)に作られた端島神社。戦争が終わり、高度経済成長のあと、端島炭鉱が閉じられ、廃坑になった後、いつのまにか拝殿が壊れてその神殿だけが残り、誰からも拝まれることがなくなった。御神体もどこかに持ち去られた。梯子を外された社は大地から切り離され、その時、端島は天から切り離されたのではないか。
また、炭鉱が閉鎖されたとき、地下深く掘り進めたれた坑道が埋められ、そこにどす黒い海水が注入された時、島は地との繋がりをも切り離されたのではないか。
そうして軍艦島は、天からも地からも切り離され、何処にも行けずに漂う船になった。

廃墟は人の想像力を触発する。このエッセイは、記憶の時間に幽閉された難破船、軍艦島に乗った時に考えた妄想。

郡 裕美  ***  Yumi Kori

参考

老場坊
http://www.1933shanghai.com/en/

投稿者:yumi |  建築, 旅行 TRIP |  記事本文